
【その0】スポーツ特待性の逆転合格ストーリー
小学校のときから、バスケが好きで、地区選抜にも選ばれるような子だった。
勉強もそれなりにできて、バスケもできる。部活の中では一番頭もよかった。
中学に入ってからもそれは変わらず、同級生全員が追試を受けていたが、僕だけ免れるなんてことはざらにあった。
テストの順位もそれなり。200人中30番、悪くても70番くらい。
決して頭がいい部類ではなかったが、できないわけでもなかった。
なによりもバスケが好きだった。
クラブチームに入って、部活と並行してバスケ。
チームとして久しぶりに県大会に出場できたときも、
「お前のおかげだ」
なんて言われた。
バスケでならエース。
クラブチームでもキャプテン。
誰よりも努力していたと思う。
ことバスケに関しては負けず嫌いなところがあった。
自分のチーム内では一番うまかったけれど、クラブチームではそれほどでもない。
ただ誰よりも声を出して、誰よりも頑張れるからキャプテンになった。
そんなこともあってか、県内で1.2位を争う強豪校からお声がかかった。
特待生として、チームに入ってくれないか。という話だった。
普通に受験しようと考えていた僕は、バスケで真剣になれることと、受験が早く終わるという浅はかな考えで、特待生の話を受けたいと両親に話した。
両親は、公立高校以外受験させないという方針で、3人いる兄姉たちは全員公立高校に進学していった。
それでも、特待生としてならと、バスケで高校に行くことを許してくれた。
受験勉強もろくにせず、ほとんど関係のない特待生入試を受けて、進学が決まった。
入試は3教科。国語、数学、英語全てで入試最高点となっていた。
国語70点、数学70点、英語90点というそこまで高くない点数にもかかわらずだ。
このときからだろうか、勉強をろくにしなくなったのは…。
高校に進学し、バスケ三昧の日々が始まった。
毎日バスケ。
朝学校へ行ってバスケ。
終わってからもバスケ。
そんな日々だった。
特待生と言っても周りのレベルは自分よりはるかに高い。
自分は埋もれていった。
でも負けたくなかった。
誰よりも練習をして、自分なりにバスケの研究もした。
どうすればうまくいくのか、考えながら自主練習を行っていた。
気づいたらレギュラーになっていた。
上級生になるとゲームキャプテンになっていた。
人間、努力すればうまくいくものだと感じた。
最終的に僕が残した功績と言えば、
・県優秀選手
・県2位
・関東8位
と、雑草だった人間としてはそれなりの成績を残すことができた。
努力すればうまくいく。
しかし、ただがむしゃらに頑張るだけではいけないのだと、このときから何となくわかっていたのだと思う。
がむしゃらに頑張ったのではなく、目標に対する計画を立てて、それに向かうために最大の努力をしていた
と今になってから理解している。
どうすればうまくいくのか、どうすればシュートが入るのか、どうすればバスケがうまくなるのか。
そんなことを考えて練習をしていた。
負けず嫌いなところもあってか、みるみる上達していった。
それが成功のメソッドだと知らずに…
進学のため、夏でバスケ部を引退した。
スタメンでは自分だけが冬まで残らないという選択だった。
その分、勉強を頑張るからと言い訳をした。
しかし、部活に専念した2年の間に勉学面で失ったものは大きかった。
「理学療法士になりたい」
という漠然とした想いはあったが、進学先のことなどろくに考えてもいなかった。
「関東の国立大だと、群馬大学にしようか」
というなんとなくの考えで、模試の志望校を群馬大学にしたりした。
結果は残酷なものだ。
見事にE判定。
どの模試を見てもE判定。
偏差値にして50もいかない程度。
やる気が起きなかった。
7月~8月までの夏休みの間は、本来勉強しなきゃいけないはずなのに、さぼった。
そんな状態で学力が上がるわけもなく、8月の模試でもE判定。
夏休みが終わるというころに、ようやくやる気が出てきた。
センター試験まで5か月しかない。
本試験までは6か月しかない。
その期間で何をすべきか、何をしないようにすべきかを最初に考えた。
群馬大学に受かるためにできることをすべてやろうと決めた。
11月に公募制推薦入試があることがわかった。
推薦と言っても、公募制のため、普通に落とされるものだ。
しかし、できることはやろうと決めたのだ。
幸いにも、推薦入試の内容は本試験の内容とかぶることがわかった。
そのため、推薦入試の勉強をしても、差支えなかった。
国語、英語、理科を中心に、基礎固めをすることにした。
そこから3か月はあっという間に過ぎていった。
そして、公募制推薦入試の日。
緊張で眠れなかった。
親の車で大学に行き、激励の言葉をもらって、入試に挑んだ。
試験の次の日は面接だ。
ホテルでもほとんど眠れなかった。
面接が終わったあとの感触として、なぜか自信があった。
おそらく受かった。
そう心の中では思っていた。
しかし、落ちていた場合、センター試験まで時間が2か月しかない状態。
休む暇はなかった。
ほとんどできなかった、社会と数学の基礎固めを始めた。
計画では1か月でこの2教科の基礎固めをして、12月から応用問題に取り掛かる予定だった。
12月の最初。試験結果が発表され、そこに僕の番号が…
あったのだ。
受かってしまった。
かなりうれしかった。
でも、心の中では、
「やっぱりな。」
と思っていた。
それだけ自信があった。
親に合格したことを告げると、すでに調べていたらしく、
「見たよ!おめでとう!」
とお祝いの言葉を告げられた。
教師にも報告した。
柄にもなく、部活の先生とハグをしてしまった。
職員室中が驚いていた。
E判定だった生徒が合格した!
と話題になった。
国立大学は学部史上3人目(そのうち2人は1つ上の先輩)だった。
別の棟にある、英進科という進学の学科の先生にもこの話が上がった。
普通科から医学部に出たと、驚愕された。
色々な人からお祝いの連絡をもらった。
「すごい!」
「快挙だ!」
ヒーローになった気分だ。
やってやった。
みたか!
なんとも言えない高揚感がそこにはあった。
部活も勉強もやればできる。
それに限らず、どんなことでもやればできる。
そう強く確信ができるのは、この経験からだ。
僕は今、理学療法士として働いている。
母校のバスケ部のトレーナーもしている。
バスケに熱中している生徒達の進学相談を受けて、僕の経験が役に立つことがわかった。
このブログを書いているのは、僕の経験がきっと受験生の役に立つと思うからだ。
このブログをきっかけに、あなたの人生が変わることを祈っている。
こんにちは。逆転合格サポーターのkatzです。
これから数回に分けて僕がどのように偏差値40の高校から国立大学に合格したのかをお話していきます。
できるだけ面白くお伝えしていけたらと思いますので、よろしくお願いします。
その0では、大まかな概要をお話します。細かいストーリーはその1から。
その0だけでも僕がどんな道を進んできたのか、分かるように書いていきます。